<萩往還下見マラニック>

萩往還下見マラニック

【マラニック概要】

日時:2004年3月29日 距離:約34km 会場:山口県萩市
目標:山口100萩往還マラニック 天気:晴れ/曇り 総合順位:---
タイム:??? テーマ:街道歩き、完踏のための下見

【山口100萩往還マラニック(250km)】

小生の今年のマラソンのメインイベントは5月ゴールデンウィークに行われる「山口100萩往還マラニック(250km)である。80キロ、100キロ、135キロ、24時間マラソンとウルトラマラソンを楽しんできたが、さすがに250キロ走ることは全く想像がつかない。
さてさてどうしたものかと対策を考えていたが、土地感もないし、山口に関する資料も岐阜では手に入らないしで困っていた。
ところが3月末に本業の都合で博多に行くことになり、これ幸いと帰りがけに山口に寄り、コースの一部を観光することにした。本当は250キロ全コースの下見をしたい気持ちだが、相当の時間がかかるので、今回は萩から山口までの萩往還の一部、約34キロを実際に走る計画をたてた。
(後日追記:2004年山口100萩往還マラニック完踏記

【萩往還について】

萩往還は、江戸時代のはじめ萩城と三田尻(防府市)の御船倉を結ぶ、参勤交代の道として整備された街道です。
行程は12里(約53km)ですが、政治的に重要な道であったため、道幅2間(約4m)の大道として位置づけられました。
そのため、利用する人も多く、山口県の歴史にとって大変意義のある道といえます。
しかし、中国山脈を最短距離でこえるこのルートには、険しい坂や峠が多く、道行く人たちにとっては苦労の多く旅であったと思われます。
途中には、石畳が敷かれ、御駕籠建場や御茶屋が設けられ、復元された建物もあります。
遠い江戸につながるこの道を、武士や庶民そして憂国の志を抱いた維新の志士たちは、どんな思いを抱いて歩いたでしょう。
歴史の道を踏み締めて、その鼓動を確かめながら、ゆっくりと歩を進めて下さい。 (現地案内板より)

【萩へ】

萩バスセンター 本業が無事に終わり博多駅から新幹線で新山口駅へ向かう。古いガイドブックを持っていったので、小郡駅が新山口駅に変わっていたことなど全然知らなかった。早くも行ってよかったと思う(^^;)
新山口から萩へと向かう方法は何種類かあるようだが、バスを利用するのが一番便利のようである。新山口から萩に向かうバスは、JRバスと防長バスの2つの会社から出ているが、朝早くに向かいたいので、朝一番の6時20分発の防長バスに乗ることにした。駅近くのビジネスホテルで一泊し、翌朝目的のバスに乗った。
スーツや革靴などの荷物は新山口駅のロッカーに入れ、帰りに回収することにした。
約1時間半で萩バスセンターに到着した。土地感と本番のコースが頭に入っていなかったので萩バスセンターで降りたが、後から考えると終点の東萩駅をスタートにすれば良かった。ちなみにバス代は1970円。

【金谷神社(かなやじんじゃ)】

金谷神社 軽く体操をして萩バスセンターをスタート。地図として1/50000地形図を持ってきたが、磁北線も登山用コンパスも持ってきていないのであんまり頼りにできない。萩往還に関する1つ目の案内板は金谷神社にあった。少し中に入ってみると立派な神社みたいなので写真を撮っていると住職の陽(みなみ)さんが話し掛けてくださった。萩往還の旧道を探すことに貢献された方、話を聞いているとすごい方だと分かり、思い切り喰いついて話を聞かせていただいた。ナタを持って萩往還の石畳を探した話も伺うことができた。また住職さんなので神社に関する解説もいただいた。天然石の灯篭や古い百人一首の絵(全員揃っているのは全国でもここだけ)、重みだけで立っているように設計された門などは必見である。
また金谷神社は城下町の表玄関というべき大木戸があった場所として知られている。治安維持のための番人がいて夜間の出入りを差し止めていたという。

【茶臼山と面影山(おもかげやま)】

茶臼山や面影山などの山々 萩駅の手前で左に曲がる。茶臼山や面影山などの山々がきれいに見えた。関西電力(?)の変電所を通り抜け県道に入ると田園風景が広がる。畑に目をやるとピンク色のレンゲの花達が綺麗に咲いていた。涸れた川沿いの道を走っていると本日は時間がなくなると困るので遠慮した。涸れた川堀では菜の花が満開であった。

【涙松の遺址】

涙松の遺址 萩の唐樋札場を出て約4キロ、萩城下が遠望できる最後の地点が「涙松の遺址」の場所であり、萩を出る人、帰る人の送迎の場であった。涙松の遺址碑には、安政6年(1859年)、吉田松蔭が江戸送りの時に詠んだ一首が刻まれている。「帰らじと思ひさだめし旅なればひとしほぬるる涙松かな」
実際に萩方面を見てみたが、あまり展望はよくなかった。

【悴坂一里塚(かせがさかいちりづか)】

悴坂一里塚 登り坂を終えると笠屋中峠。東側に立派な弘法大師の小堂があるとのことだが、チェックするのを忘れてしまって残念。
有料道路の下をくぐって遊歩道を歩くと悴坂一里塚である。萩唐樋の札場からはじめての一里塚で旧態をよくとどめている。中山道の一里塚と非常によく似ていた。

【大屋刑場跡】

大屋刑場跡 悴坂一里塚と大屋刑場跡は目と鼻の先であった。大屋刑場跡には「首切り地蔵」とよばれる地蔵が祭られていた。この地は刑場として、斬首・磔(はりつけ)が行われた場所である。首切り地蔵の側を流れる小川の下流には、当時使われていた磔石が今でも数十個捨てられているそうだ。コワイ……。
また宝暦9年(1759年)には藩医 栗山孝庵が、日本で初めて女体解剖を行った場所でもあり、それを記念した碑が立っていた。

【松蔭記念館】

吉田松蔭記念館 有料道路と合流すると道の駅「萩往還公園」に着く。ここには松蔭記念館というその名の通り吉田松蔭にまつわる資料館がある。表には維新の志士達の銅像もあった。ここで『松蔭と道』(山口県教育会)というマニアックな本を買った。本日の目的の一つである萩往還の情報収集という目的はこれで達成できた。ISBNが付いていないので現地でしか手に入らない代物だ。またこの道の駅では萩往還散策路のパンフも頂けた。

【悴坂駕籠建場跡(かせがさか おかご たてばあと)】

悴坂 駕籠 建場跡 道の駅から萩往還に続くと未舗装道路になり悴坂駕籠建場跡に着く。駕籠建場とは殿様一行が小休止をとるために設けられた施設で、悴坂には柴垣が設けられていた。また、道をはさんで床やいろりを持つ茶屋風の建物も設けられていた。現在は、当時の水飲み場と思われる跡がわずかに残っているだけである。

【悴坂隧道(かせがさかずいどう)】

悴坂隧道 未舗装道路を終え、階段を下りると、国登録文化財である悴坂隧道(鹿背隧道)が目に入る。隧道という言葉初めて聞いたが、トンネルのことである。長さ約182m、幅4.2m、高さ3.9mで玄武岩の石組みは現在でも立派に残っている。

【烏帽子岩】

烏帽子岩 石畳が所所に見え出すと烏帽子岩がある。岩の形が烏帽子に似ているから、その名がついている。自然の道標として利用されていた。この坂道を下ると、明木川に行き当たり、歩きやすい舗装道路となる。この間、旧権現社跡を右に見ることができるそうだが、よく分からなかった。明木川の「渡り」となっていたところに現在は中所橋が掛かっている。気持ちよく舗装道路を走る。越ヶ迫口と呼ばれる場所の辺りで「殉難三志」の解説版がたっていたが、歴史に疎い小生は読んでもピンとこなかった。

【明木橋(あきらぎいち)】

明木橋 一等水準点を見ると明木橋は近い。下田踏海に失敗し、国禁を犯した吉田松蔭と門弟の金子重之助は、安政元年(1854年)に萩へ護送される。松蔭は明木橋に託して次の一編の詩を作った。
「少年志すところあり---柱に題して馬卿に学ぶ---今日檻輿の返---是れ吾が昼錦の行」
明日は罪人として萩入りするのであるが、自分達の行為は恥ずべきものでないのだと、松蔭は自らに言い聞かせ、重之助を励まそうとしたのである。

【明木市(あきらぎいち)】

萩往還と赤間関街道の交差点に形成された集落で駅が置かれ、明木宿とも称した。明木市の総戸数は73軒だと言われているが、この数字は多いと見るのか少ないと見るのかよく分からない。
農協と雑貨屋のある所が一升谷の入り口であり、左に曲がる。道案内が変な場所に着いていたのではじめ見落としてしまった。農協のあるまがり角には「右せき道---左山口道」と書かれた石柱があった。これは藩政時代、萩往還と赤間関街道の分岐点に置かれたものである。
乳母の茶屋 一升谷入り口

【一升谷】

当日は気がつかなかったが、農協から2、300m先に右に曲がる小道があるそうで、これが旧赤間関街道である。萩往還は直進する。この分岐あたりが堂尾で一里塚が立っていたそうだ(現在は形跡なし)。本格的な林道になり緩い登りになる。1合目、2合目……と書かれた木の柱を見ながら走る。萩往還マラニックでは200キロ以上走ってからこの坂を登るわけだ。想像するだけで恐ろしい。途中に町田梅之助自刃の地や石畳が保存されていて、また沢に沿った道なので気分転換ができた。
根の迫橋までとりあえずジョグで登ったが、そこから始まる狭い石畳の急勾配はさすがに歩いた。根の迫橋の近くには東屋や一升谷の名の由来が書かれた解説板などがあった。昔から長く急な坂道のために、この坂道に通りかかって炒り豆を食べ始めるとちょうど一升無くなる事から一升谷と呼ばれるようになったという。面白いものだ。10合目(1升)の五文蔵峠で一休憩。石畳は歩きにくいものであるが、雨水によって表面の土が流れないように設けられたもので、祖先が築いた汗の結晶である。萩往還の面影をもっともよくとどめている通路の一つであるそうな。
根の迫橋 五文蔵峠

【釿切】

松並木 五文蔵峠から下ると釿切(ちょうのぎり)の集落に入る。国道262をくぐると「御駕籠建場と桜茶屋」の案内があるが、周囲の畑しか見えず展望はいまいちであった。細い道から階段を上がって竹林公園の展望台で一休み。中の峠下に一里塚があったようだが、本日は気がつかなかった。ここから国道262と合流するとすぐに中の峠である。茶屋と自動販売機があったので、ジュースを買おうと近寄ってみたが残念ながら廃業していた。中の峠から少し下り国道脇から細い道に入る。この辺りは明治以来の道路工事や水田開作等によりほとんど形跡がなくなっているそうだ。それでも石畳と松並木の気持ちの良い道であった。

【千持峠】

佐々並集落へ バス停脇から細い道に入り、珍しい作りの落合の石橋(国登録文化財)を渡ると徐々に勾配がでてくる。千持峠(せんもちとうげ)へ向かいだしたのである。峠とはいっても標高は高くなく、頂上には萩往還の見慣れた案内柱が立っているだけであった。一気に下ると佐々並の集落が見えてくる。

【佐々並市】

坂を下り終えて集落に入ると村道の市久年線と合流する。曲がり角で真宗西岸寺を見て道なりに歩く。佐々並川を渡ると佐々並市である。突き当たりに「旭村世代間交流施設」と書かれた施設があり左に曲がる。参考文献によるとどうやらこの施設は旭村佐々並庁舎なのだそうだ。さらに行った突き当りには「佐々並市と御茶屋」の案内板が立っていた。佐々並市は萩往還の整備とともに成立した集落であり、明木市と同様に駅が置かれた。御茶屋や御客屋などの休憩施設の他にもいろいろな組織や施設が置かれていた。慶応元年に行われた佐々並の戦で大きな被害を受けたが、町並みは今でも往時の景観をよく留めている。
佐々並市 佐々並市頭の一里塚

【日南瀬の首切れ地蔵】

階段の登りがきつそうな貴船神社はパスして板橋峠へと向かう。国道と合流する辺りが板橋峠であるが、特に何も表示は無かった。しばらく単調な国道を走る。徐々に登っていった後で、一旦国道と離れるがすぐにまた合流する。この頂上が日南瀬峠(ひなたせとうげ)である。その後、バス停「中の作」を見て国道と分かれた。
数百メートルで「首切れ地蔵・地蔵屋敷跡」に着く。忠義な下僕源助がこの地蔵のお告げにより、近くの沼から首の切れた地蔵を探し出し、ここに祭り、主人の仇討ちもできたということが伝えられている。はじめから首が離れた地蔵尊であったため、首切れ地蔵と呼ばれている。
また地蔵屋敷の脇には現代では見られないような石風呂があった。
日南瀬の首切れ地蔵 石風呂

【上長瀬一里塚】

上長瀬一里塚 県道と合流し、単調な舗装道路に入る。しばらくすると左手に上長瀬(かみながせ)一里塚が見える。防長両国の一里塚は元治元年(1864年)ほとんど廃され、常緑樹に改められた。現在でもその形をとどめているのはこの上長瀬と悴坂の一里塚だけであるという。

【逆修岩】

逆修岩 「逆修」とは「生前にあらかじめ死後の冥福を祈って仏事を行うこと」という意味である(『大辞林 第二版』より)。見るからに変わった形の岩であったが、その名前の由来はなんだか難しくて解説版を読んでもピンとこなかった。

【夏木原キャンプ場】

キャンプ場 逆修岩を過ぎると徐々に峠に向かって坂になっていく。萩往還最高点へと向かうわけだから覚悟して高度を稼いでいくが山間の谷道なので案外気持ちよく通れた。道なりにジョギングしていくと夏木原キャンプ場が現れる。今回は寄らなかったが、夏木原キャンプ場付近には氷を保存していた室(むろ)の跡もあるそうで、一度どんなものか見てみたいものだ。また入り口付近には吉田松蔭東送の碑が立っていた。飲み物が残り少なくなっていたのでキャンプ場で水を頂こうかとも思ったが、ま、なんとかなるだろうといつものようにノンキな考えて通り過ぎた。この辺りは自動販売機が全く無いので夏の暑い日などは大変だと思う。

【国境の碑】

国境の碑 キャンプ場から数百メートル進むと、萩往還は県道から離れて国境の碑へと続く山道に入る。長門国阿武郡と周防国吉敷郡との国境・群境を示していて、高さ210mの立派な石柱であった。
ガイド本や現地の案内ではここから6〜700mくらい先に一ノ坂銀山跡があると書いてあるが、持参していた1/50000地形図ではそれらしい場所が分からなかったので、少し興味があったが今回は遠慮した。一旦下って登り返し、東鳳べん山の案内を見ると板堂峠(いたどうとうげ)に到着。板堂峠は萩往還の最高点(標高570m)であり、国境の碑から少し先にある。最高点ということで板堂峠からの展望を楽しみにしていたが、付近の低山しか見えず少し残念だった。ちなみに「板堂」の名は惣田地区に大内政弘が板葺きの堂を建てたところに由来すると言われている。

【キンチヂミの清水】

キンチヂミの清水 最高点を過ぎれば後は下りだけである。日帰りで無事に山口まで行けるか、少し心配していた部分もあったが、この時点で無事に帰れることを確信する。道は山道になりキンチヂミの清水に着く。当時の旅人はこの水を飲んでのどの渇きを癒していたのであろうが、現在では汚くてとても飲める気がしない。しかし何とも言えぬ名前の水飲み場である。その名前から察するに、水風呂代わりにしていた旅人もいたのだろうか?いや〜飲む気がおきませんぞ(^^;)

【六軒茶屋跡】

六軒茶屋 キンチヂミのすぐ先に御駕籠建場跡があるが、現在では木が生い茂っていて展望は全く無い。さらに少し進むと左側に大きな岩が並んでいる。「一貫石」と呼ばれ、銭一貫文にまつわる面白いいわれが残っている。薄暗い中を快調に下っていくと一ノ坂一里塚跡があり、解説版によるとここが萩と三田尻の中間点(各々から6里の距離)とされていたことが分かった。左側の小高い場所にお地蔵様を見ると六軒茶屋跡に着く。昔はここに萩往還をはさんで六軒の茶屋があったのでその名がついた。

【急勾配の萩往還】

六軒茶屋でトイレを済ませ、本格的な下りを降りていく。舗装道路を一度だけ横切る。一ノ坂から天花畑(てんげばた)までの間は急な坂が続くため道は九十九折になっていて、石畳の個所も多い。当時の人たちには最大の難所であったことであろう。うっそうとした石畳の道を抜けると前方に集落が見え思わずほっとする。坂を降りて天花畑に取り付く所は「坂口」と呼ばれている。坂口には萩往還の解説板や錦鶏の滝への案内があった。
桜が見事 坂口手前

【一ノ坂ダム】

一ノ坂ダム下からの風景 県道と合流すると民家も現れて今までの山中の雰囲気とは気持ちも一変する。安産の伝説が残る石体子安観音堂を見て、一ノ坂ダムへと続く単調な道をジョギングする。この辺り(ダム上流)の萩往還は一ノ坂ダムの完成により水没してしまっているらしい(錦鶏湖の下)、残念だ。一ノ坂ダムから山口市内の一部が見渡せて気持ちよかった。一ノ坂ダムから一ノ坂川の右岸(上流から見て右側)を進んできた萩往還と合流する。ここから川の右岸に沿って木町橋へ至るのが旧道らしいが、本日は川の左岸をそのまま直進した。

【瑠璃光寺】

瑠璃光寺五重塔 天花一里塚があったといわれる場所までくると山口市内を観光している人たちが目立ち始める。萩往還はまだ三田尻まで続くのだが、本日中に岐阜に帰らなければならないので、山口100萩往還マラニックにあわせて瑠璃光寺をゴールとした。下見のつもりで萩往還にきたが、その魅力にはまってしまった一日であった。時間の許す限り山口市内を観光して(サビエル聖堂)、帰宅した。

【時間記録】

距離 場所 到着時間
0.0km 萩バスセンター 08:00
10.0km 明木市 10:15
19.0km 佐々並市 12:35
28.0km 国境の碑 14:05
34.0km 瑠璃光寺 15:30

【総評】

【参考文献】


Copyright© 2004 プリンスNORI , All rights reserved.